幽霊かもめダイアリー

「島は海に浸かった山であり、山はまだ乾いている島である」(ドゥルーズ「無人島の原因と理由」)

パスタを茹でながら考えることども(自己愛について)

このまえ自己愛の話になって、それからすこし気になっている。

相手は「自分は自分を100%愛しているナルシストだから、同質の友だちはいらない」と言っていた。わたしもわたしを100%愛している「ナルシスト」だが、もっとクィアの友だちは欲しい。そのように返して、話はそのまま流れたが、なぜ帰結にこういう違いが生じるのだろうか。

もうすこし整理しよう。わたしも相手も、自分自身のことを愛していることで共通している。クィアな友だちは「同質の友だち」なのか、という会話のズレは措くとして(クィアは当然、アイデンティティの同質性に対して異をとなえる)、このときわたしには、自分を愛するということと、(自分に似た)友人を欲しがるということとが、いったいどのように関係しているのかがまったくわからなかった。

まず、まったく無責任に想像をめぐらせてみても、自分のことが好きなら、自分に似た人も好きになることも十分にありそうなことに思える。さらに、ここで「だから、同質の友だちはいらない」と言うとき、その「だから」は、「最愛のひとは二人もいらないから」だろうか。「自分を十分に愛す余裕がなくなってしまうから」だろうか。あるいは「もう同じものはいらないから」だろうか。同じ自己愛者であるわたしにとっては、しかし、そもそも先ほども言ったようにこの二項はそれぞれ独立している事柄なので、これらのことについてまったく想像がつかない。まあ、性格の違いだろうか。

 

いや、これは「自己愛」の違いではないだろうか。性格の違いではなく。同じ自己愛でも、いろいろな自己愛があるんじゃないだろうか。このことにハッと気づいてから、わたしはこの話が気になっているのだ。いや、むしろ、これまでこのことに気づいてこなかったということが、わたしにとって衝撃だった。多様な自己愛のあり方について、これまでわたしは考えたことがあっただろうか。なぜこのことを考えなかったのだろう。

もちろん、仮に心理学かなにかの本を開いて、「さまざまな自己愛のあり方」というページが目にとまったたら、わたしは、ふむふむまあ色々な自己愛の種類がありうるだろうな、と思っただろう。しかし、わたしが気づいたのはそういった種類のことではない。いろいろな仕方で自分を愛することができるという、その可能性じたいに目を開かれたのだ

 

「あの人は自分のことが好き」「あの人はナルシスト」と聞くとき、なにか侮蔑的な響きが聞き取れないだろうか。「わたしは自分のことが好き」と聞いて、なにか傲慢さをあなたは感じないだろうか。しかし、なぜそのように聞き取らないといけないのか。

自分を愛するということに単一のそして侮蔑的な意味しか与えられていないということは、他の人を愛するときも様々なあり方を想像することが難しく作られているこの異性愛主義の社会(fuck)において、とくに驚くべきことではないかもしれない。たしかに、自分を愛するということには、どこかクィアネスがある。ひとびとはこのクィアネスに対して恐れを抱くのかもしれない。

このように自己愛という言葉が一般に侮蔑的に機能するなかで、自分を愛するということについて語る語彙の、圧倒的な貧困があるのではないだろうか。そうした愛があるということの、可能性にすら気づかせないような(じっさい、表現する言葉があるということは力である。そして、自らを表現する語彙や概念があるかどうかということは、まったく政治的な問題である——解釈的不正義!)。

 

じっさいわたしは、どのようにわたしを愛しているだろうか。わたしは昔から自分を愛しているという実感があるが、自分のことを愛してもいいのだと思えるようになったのは最近のことだと考えている。これはわたしのなかでは完璧に整合的な事態だが、これをどういうふうに説明することができるだろうか。

わたしはその言葉を持たない。しかし、わたしが言葉を持たないのは、それが言葉を持たない現象だからではないはずだ。いろいろな人の自己愛について、楽しく聞いたり、話したりしてみたい。