手紙と追悼
「でも、ごめんなさい。わたしはその夢をすぐにかなえようとする夜のそらが、怖くなったのです。だから、わたしは船を降りました。わたしは夜のそらをやめるしかありませんでした。わたしが生にしがみつく方法が、夜のそらをやめることでした。わたしはボートを降りました。」
「その前に、夜のそらさんにきちんと感謝を述べておきたいと思って、この追悼文を書きました。」
こう言ってしまうのはとてもためらいがある。でも、わたしもトランスをしたのだ。
「駒場のわたし」の大切な友人だったひとに、その「駒場のわたし」が数年前にはすでにもう死んでいたことを告げる手紙を書いたのだった。友人はとても義理深いし、その「わたし」を殺したわたしの、他人事のようなその報告を許さないと思う。「駒場のわたし」にとって、その友人は全てだった。意味の全てだった。
わたしはでも生きたくて、その「駒場のわたし」を終わらせた。生きるにはそれしかなかった。
わたしはトランスをした。
わたしは「駒場のわたし」を悼みつづけたい。そのために残りの生を使おうと思っていると、手紙に書いたのはまったく誇張じゃない。「駒場のわたし」はわたしのなかにいるわけじゃない。「駒場のわたし」はわたしに取り憑いて何年か呪ったあと、一年前くらいに去っていった。
でもわたしは悼むことで、脱臼した時間のなかで「駒場のわたし」にまた会えたらと思うのだ。ほんとうにほんとうにありがとう。とてもつらいことばっかりだったと思う。
友人は悼んでくれているだろうか。そしたら、どこかで三人で話せるかな。
いや、あなたはその友人のことが大好きだったから、二人でたくさん話してほしい。