むかし書いた詩がある。
ヴィデオ・ゲームをして時間を摘むことにしている。ヴィデオ・ゲーム。時間が流れていかないことは苦しい。時間が流れていくとはどういうことなのかを理解することは、しかし常軌を逸して難しい。時間が流れるということにしておかなければ意味をなさないあらゆる言葉たちは、すでにこの点で破綻しているのだと言ってもよい。そうして時間は流れない。だがそれで時間がどうなっているのか、ということは分からない。勉強熱心な青年たちは学習机の蛍光灯の光の下でそれを掴むだろうか、あ。もっと個人的なこと。
個人的なことは政治的なことで文字的なことだ。文学的なことかは知らない、文字的なことだ。こう宣言することで個人は政治の問題にひらかれ、文字の海に溺れる(とは、どういうことか?知らない)。文字の渦があるなら渦の文字がある(ひとは逆向きに覚えるかもしれない)。そうすると文字の波が個人のひらひらして海の物語が暗く、沈む。
海に時間はあるのだろうか。悠久の海だと言われる。永遠の海だと言われる。母だの子宮だの言われている。どうにもつまらないから海は時間なのだ、海がそのかたまりでどこかへ流れていってしまうことを考えている人は可笑しい。魚文字、渦のなかで時計の部品が集まって動き始めるような確率で誕生すると言われている、このような生命が時計の秒針だか螺子だかを持ちださなければ語れないような言葉なら破綻している。
朝を殺戮する詩人たちがいる。朝を祝福する詩人たちがいる。朝を殺戮しながら祝福する詩人たちがいる。その逆もいる。これは、時間を摘むことではない、時間が摘まれ出荷されていく冷凍保存のバス・トラックで運転手たちは苛烈な居眠りをしている。
衝突は時間の問題だ、あるいは
衝突は時間以外の問題なのだろうか?
衝突は土地の問題かもしれない。ゆるくカーヴする山のハイ・ウェイ、建設の反対に農民たちが身体を木に縛りつける、切り倒される木がやがて転がってくるトラックの下敷きに運転手は暗い道でひとりだ。文字が衝突するとはどういうことなのか知らない、渦。渦の文字に溺れる(2024/01/14)
一段落目はあまりに冗長でもっとなんとかなりそうなものだ。
二段落目にはいいところもある。三段落目はよく分からないがわたしには良い。
うしろのほうも嫌いじゃない。
これはそれでも最近のほうだが、むかし書いたものを読み返していると、
海だか溺れるだかの話ばかりしている。
わたしも海で溺れる比喩を生きていたトランスジェンダーのひとりだ。
(トランスと海の比喩については、しっかりしたものを書きたい。)
文字が眩暈を起こす海や渦のようなものではなくて、
自分をどこかへ先へ運んでいってくれるものかもしれない
と考えるようになったのは、ほんとうに最近のこと。
スパイ仲間に話したら最初から知っていたみたいだった。
「だから書くんですよ」と言われた。
その仲間は毎晩せっせと文字の舟の手入れをする。
わたしもそれに乗せてもらう。
かつての友人と絶縁のようなことになった
いろいろあった週末だった。
わたしが海で溺れてイヌクジラという空想上の存在だけをたよりに
生きていた(死んでいた)ときの友人だった。
友人にはいまのわたしがかつてのわたしの搾りカスで、
生き恥を晒しているようにしか見えないのだろう。
けどかつての言葉は渦の言葉だった。そこには生きることは用意されていなかった。
渦の言葉、言葉の渦がわたしだった。
友人はかつてのわたしの墓守をしつづけている、
幽霊船のようだ。
かつてのわたしがそう呪ったのだ。
友人はそれに忠実であろうとしつづけてくれているだけなのだろう。
衝突は時間の問題だった。
ただしそれは奇妙に歪んだ時間の問題だった。
わたしたちはいったいいつを生きているのだろうか。
文字の舟はわたしをどこへ連れていってくれるのだろうか。このような文字たちは。

















