トランスジェンダー追悼の日によせて
わたしには心がない。わたしには痛みがあるだけだ。
追悼は感傷ではない
心をやめる(目次)
やはり心をきっぱりやめました。
男をやめるように(意図した平行性)。章立ては以下のようなかんじ
(1)心とはなんだったのか
・その核心としての「本当の」
・個室の心、挫折する言葉
・心が配分する権力
・心がなければ生きていけない?(男でなければ生きていけない、ように?)
(2)心をもたない者の存在論
・わたしとは群れである
・言葉の罠をはる
・食べる、できるだけおかしな仕方で
・弔う――心をもたない者の倫理
(3)国家に抗する私=社会
(4)しかししばらくは、まとまらない言葉を生きる
こうやって生きるために参考にできるものは少ないから、すこしずつ頑張ります。実は、わたしの修士論文もこのテーマの一環なんだよ
手紙と追悼
「でも、ごめんなさい。わたしはその夢をすぐにかなえようとする夜のそらが、怖くなったのです。だから、わたしは船を降りました。わたしは夜のそらをやめるしかありませんでした。わたしが生にしがみつく方法が、夜のそらをやめることでした。わたしはボートを降りました。」
「その前に、夜のそらさんにきちんと感謝を述べておきたいと思って、この追悼文を書きました。」
こう言ってしまうのはとてもためらいがある。でも、わたしもトランスをしたのだ。
「駒場のわたし」の大切な友人だったひとに、その「駒場のわたし」が数年前にはすでにもう死んでいたことを告げる手紙を書いたのだった。友人はとても義理深いし、その「わたし」を殺したわたしの、他人事のようなその報告を許さないと思う。「駒場のわたし」にとって、その友人は全てだった。意味の全てだった。
わたしはでも生きたくて、その「駒場のわたし」を終わらせた。生きるにはそれしかなかった。
わたしはトランスをした。
わたしは「駒場のわたし」を悼みつづけたい。そのために残りの生を使おうと思っていると、手紙に書いたのはまったく誇張じゃない。「駒場のわたし」はわたしのなかにいるわけじゃない。「駒場のわたし」はわたしに取り憑いて何年か呪ったあと、一年前くらいに去っていった。
でもわたしは悼むことで、脱臼した時間のなかで「駒場のわたし」にまた会えたらと思うのだ。ほんとうにほんとうにありがとう。とてもつらいことばっかりだったと思う。
友人は悼んでくれているだろうか。そしたら、どこかで三人で話せるかな。
いや、あなたはその友人のことが大好きだったから、二人でたくさん話してほしい。
現実をめぐる言葉のゲーム
自分の現実を理解してもらおうとするなら、それを正直に話せばいいと思うだろうか。 でも、その「現実」がとてもシリアスなものだったらどうだろう(というか、こんな段階でつまずいているような人の「現実」はたいていシリアスだ)。
「わたしはこう(現実)です」と話す。それは暗くて長くて難解で、たいてい非論理的な話だ(なぜなら、それ(現実)の話し方は、ふつうの社会には用意されていないのだから。だからそもそもはじめから理解されていないのだ)。するとどうなるだろうか。
仮に相手が話をよく聞いてくれる人だったとしても、ほとんどの場合、そこで伝わるのは話の内容じゃない。「暗い話だ」「よく話す人だ」「よくわからないことを言われて困るな」。相手に対して勝手に作用してしまうわたしの言葉に、わたしはひどく戸惑う。
パスタを茹でながら考えることども(自己愛について)
このまえ自己愛の話になって、それからすこし気になっている。
相手は「自分は自分を100%愛しているナルシストだから、同質の友だちはいらない」と言っていた。わたしもわたしを100%愛している「ナルシスト」だが、もっとクィアの友だちは欲しい。そのように返して、話はそのまま流れたが、なぜ帰結にこういう違いが生じるのだろうか。
もうすこし整理しよう。わたしも相手も、自分自身のことを愛していることで共通している。クィアな友だちは「同質の友だち」なのか、という会話のズレは措くとして(クィアは当然、アイデンティティの同質性に対して異をとなえる)、このときわたしには、自分を愛するということと、(自分に似た)友人を欲しがるということとが、いったいどのように関係しているのかがまったくわからなかった。
まず、まったく無責任に想像をめぐらせてみても、自分のことが好きなら、自分に似た人も好きになることも十分にありそうなことに思える。さらに、ここで「だから、同質の友だちはいらない」と言うとき、その「だから」は、「最愛のひとは二人もいらないから」だろうか。「自分を十分に愛す余裕がなくなってしまうから」だろうか。あるいは「もう同じものはいらないから」だろうか。同じ自己愛者であるわたしにとっては、しかし、そもそも先ほども言ったようにこの二項はそれぞれ独立している事柄なので、これらのことについてまったく想像がつかない。まあ、性格の違いだろうか。
いや、これは「自己愛」の違いではないだろうか。性格の違いではなく。同じ自己愛でも、いろいろな自己愛があるんじゃないだろうか。このことにハッと気づいてから、わたしはこの話が気になっているのだ。いや、むしろ、これまでこのことに気づいてこなかったということが、わたしにとって衝撃だった。多様な自己愛のあり方について、これまでわたしは考えたことがあっただろうか。なぜこのことを考えなかったのだろう。
もちろん、仮に心理学かなにかの本を開いて、「さまざまな自己愛のあり方」というページが目にとまったたら、わたしは、ふむふむまあ色々な自己愛の種類がありうるだろうな、と思っただろう。しかし、わたしが気づいたのはそういった種類のことではない。いろいろな仕方で自分を愛することができるという、その可能性じたいに目を開かれたのだ。
「あの人は自分のことが好き」「あの人はナルシスト」と聞くとき、なにか侮蔑的な響きが聞き取れないだろうか。「わたしは自分のことが好き」と聞いて、なにか傲慢さをあなたは感じないだろうか。しかし、なぜそのように聞き取らないといけないのか。
自分を愛するということに単一のそして侮蔑的な意味しか与えられていないということは、他の人を愛するときも様々なあり方を想像することが難しく作られているこの異性愛主義の社会(fuck)において、とくに驚くべきことではないかもしれない。たしかに、自分を愛するということには、どこかクィアネスがある。ひとびとはこのクィアネスに対して恐れを抱くのかもしれない。
このように自己愛という言葉が一般に侮蔑的に機能するなかで、自分を愛するということについて語る語彙の、圧倒的な貧困があるのではないだろうか。そうした愛があるということの、可能性にすら気づかせないような(じっさい、表現する言葉があるということは力である。そして、自らを表現する語彙や概念があるかどうかということは、まったく政治的な問題である——解釈的不正義!)。
じっさいわたしは、どのようにわたしを愛しているだろうか。わたしは昔から自分を愛しているという実感があるが、自分のことを愛してもいいのだと思えるようになったのは最近のことだと考えている。これはわたしのなかでは完璧に整合的な事態だが、これをどういうふうに説明することができるだろうか。
わたしはその言葉を持たない。しかし、わたしが言葉を持たないのは、それが言葉を持たない現象だからではないはずだ。いろいろな人の自己愛について、楽しく聞いたり、話したりしてみたい。
工場(しかし一体、なにを作るというのか?)
結局、思ったよりもだいぶ状態が良くなくて、このあと別の用事でパートナーと会ったとき、パートナーともろくに会話することができずに、公園で座り込んでしまった。
いまが何月何日かさえ、もうなんにも分からなくなるくらい混乱した。ブレーカーがバツンと落ちたように。
遠くの街頭をぼうっと眺めながら、必死に復旧作業をした。何度も反復してすでに頭に入れてあるマニュアルを思い出しつつ、順番にスイッチを上げていくように。なんとかふたたび身体が動くようになって、パートナーと試運転のように会話をしながら帰った。
昔はそもそも電源自体がなかったのでこんなことは起こらなかったが、今ではそんなことはなくて、しかしそれでも、そよ風で軋むようなインフラで電力供給をしているオンボロ工場にすぎないので、わたしは頻繁にメンテナンスをしなければいけない。忙しくてサボっていたが、こうなるからいけない。
(喫茶店での走り書き)
「人間舐めんなよ」リスト
『血の轍』を読んだ。それよりも1000倍いい作品だと思っている『おやすみプンプン』もそうだが、どうして「生きていくことができない」という問題はいつもシスヘテロ男性の物語として語られるのだろうか。
ルジャンドルが、生きることの〈準拠〉の問題がまったく系譜の問題であると言うことの意味を、わたしはいまだに根本的にはよく分かっていないが、しかし、ルジャンドルの一面ではまったくシスヘテロ男性中心主義的な図式(〈父〉と(男の)子の問題)は、こうした漫画作品のなかで示されているように思える。
ともかく、異性(ほとんど女性)と出会うことで(救われて)結末を迎えるというプロットをとる作品はすべて、わたしのなかの「人間舐めんなよ」リストにぶち込まれる。シン・エヴァも、サカナクションのMVとかもここに入っている。
シン・エヴァは、シンジがアニメーションの一コマへと分解されるところで終わるべきだったと思う。物語を運んでいく計画=列車、そこには始まりから終わりまでの全てのものが乗せられてしまうが、それと同時に、永遠の夕焼けのなかでゲンドウひとりしか乗っていない、そのような列車をゲンドウは最後に降りることができたのだし、そしてそこから現実が始まるはずだったのではないか。その現実とは、最後のシーンでシンジがマリの手をとって駆け出していく、どこか焦点が合わずにぼやけた街の風景などではなく、アニメーションの一コマとして描かれたシンジ、それを描く手、それを見る私たち…と、それが現実を向くということなのではないか。
全然関係ないけど『バクマン』はマジで人間舐めんなよと思う。全然関係ない。