幽霊かもめダイアリー

「島は海に浸かった山であり、山はまだ乾いている島である」(ドゥルーズ「無人島の原因と理由」)

おばけ👻

もし高校生のわたしに、あなたはクリスチャンぎみのノンバイナリーになるよ、と伝えたら、さぞ驚くだろう。だけど、わたしがずっと感じていた違和感は、そうか、そういうかたちをとるのかと、素直に納得するところもあるだろうと思う。

 

わたしは、これ以上じぶんにとってのリアリティをほかのひとに無視させてやるものかと、そういうリアリティに生存権を与えるために、研究者になろうと思った。人文系の研究者にはそういうことを可能にしてきた人たちがいると思っていたし、その力をわたしはいまだに信じている。

 

ひとから無視されると、わたしは抑えようがなく動揺してしまう。それはまず、わたしの父親が妻や子どもの言葉を無視するひとだったからだろう。

いちど、大学二年生のサークル活動のときに、無視をくらったことがある。わたしは選手たちをジャッジする役割で大会に参加したのだが、ちょっとゴタゴタがあって(これにかんしてはわたしが完全に潔白とは言えないが)、そのゴタゴタを理由に、わたしは円滑な大会運営のために無視されることになった。ジャッジはひとりひとり、それらを統括するジャッジに意見を聞かれて、そのうえで議論が行われるのだが、わたしはそこでいないものとされて、わたしの話が聞かれることはなかった。

理由じたいの当否は措いても、その事態は理由があることではあった。けれど、わたしはそのことが整理できずに、議論の時間が終わると同時にその場から走り去って、嗚咽しながら友人に電話をかけた。呼吸が整うまでかなり長い時間がかかって、早く会場に戻らなくてはと困ったおぼえがある。

 

だが、こうした話はあくまでも、無視されるということをめぐる寓話にすぎない。つまり、こうした寓話的出来事に打ちのめされるほど、わたしは無視されるということに敏感だった。

わたしは、ふつうにしていると無視してしまうような見えないものを、このからだのなかに抱え込んで生きていた/死んでいた。

 

わたしは幽霊がいると思う。みんなはどうだろうか。

いや、わたし自身が幽霊だったときがある。だから幽霊はいるのだ。

 

わたしはそこにいたのだ。そして誰もそれを無視することはできない。

 

(出先での走り書き)

きっかけ

最近、わたしのなかでいろいろと大きな組み換えが生じているのを感じる。
あるばしょにずっとはまっていたパーツが、思いもよらないばしょへと不意につけかわったりして、その瞬間ふわっと香るように懐かしい思い出があふれることがある。
 
懐かしい思い出、というのもちょっと違う。思い出がその色あいをぜんぶ(!)とりもどして、ふたたびウワンウワンと動きだすのだ。だから、ふわっと香るように、というのもまた違うかもしれない。わたしはただそれに圧倒されるのだから。